安心立命 

奇跡講座の実践と気づきについて

たりないふたり

本家「たりないふたり」も最高なんですが、

 

今日はCreepy Nutsの「たりないふたり」という歌を紹介します。

 

共感できる歌詞が胸にささりますが、

 

奇跡講座的には自我の描写が秀逸です。

 

たりない

俺には何かたりない

君にも何かたりない

きっと何かがたりない

(たりない)

ステイタス たりない

famous   たりない

お金だとかオシャレだとか

人望がたりない

 

自分には何かたりないと

常に感じている、

地位、名声、

お金、身なり、人望、

それらが手に入れば満たされるんじゃないだろうか?

これが欠乏の原理(自我の思考体系)です。

 

しかし、その欠乏の原因は心にあるので、

この世界(結果)でそれを解消することはできません。

 

無いものだらけで

無いものねだりな

最低のろくでなし

俺ら プライドにまみれて

ハートが壊れた

サイコなお友達

 

プライドにまみれて

(実在性を証明してくれ!)

ハートが壊れた

(心という自覚を失った)

サイコなお友達精神障害者

これが自我です。

赦しの観点からは、ろくでなしだと非難(価値判断)せず、

ほんとは実在していないと自覚するだけです。

 

陰キャな歌詞と切れ味鋭いラップ、

 

ヒップホップってかっこいいですね。

 

しかしこの歌を心地よいと感じ何度もリピートする自分は、

 

自我を自分で望選択しているんだなと実感します。

 

やめられません。

 

【質問】怒りや攻撃の想念を自覚する②

次にワプニックさんの回答部分について見ていきます。

 

質問者

これは長期にわたり『奇跡講座』を学んでいる者にとって、いわば「普通」のなりゆきなのでしょうか?

 

これとは「完全に凶暴性を帯びて殺意に満ちた私の思考を自覚していくこと」です。

 

【回答】

その通りです。あなたが述べておられることは、『奇跡講座』を学ぶ者たちにとっては、ごく普通の経験です。

 

それは、ごく普通の経験であり、私も今回体験したことです。

 

それをしているとき、私たちは、それまでは常に闇の中に保とうとして必死で努力してきたもの【無意識のうちにですが 】を、光のもとに運んでいるのです。

 

それ(赦し)をするとき、私たちは否認してきた罪・罪悪感・恐れを、聖霊の光のもとに運んでいます。

 

聖霊の手を取り、これまで埋没させてきたものを意識化しようという意欲が強まってくると、私たちはそれまで以上に、自我が本当にどれほど憎悪に満ちていて凶暴なものであるかを目にするようになる、ということが、しばしば起こるのです。

 

聖霊を教師としていく、その意欲が強まってくると、自我の本質が露わになっていきます。

 

「あなたの動機が、自我が知覚しているあなたとは明らかにそぐわないものになるやいなや、自我はそれを攻撃する。自我が猜疑心から凶暴性に突如として移行するのは、このときである。それは、自我の確信のなさが深まるからである。」(T-9.VII.4:6-7)

 

動機(分離を維持したい)が、聖霊の目的(分離は存在しない)に取り替えられ始めると、自我は他者ではなく私を攻撃し始める。この時不安・恐れが、怒り・殺意に移行する。それは自我の実在性が脅かされるからである。

 

「光が近づいてくると、あなたは闇へと急ぐ。真理の前で縮み上がり、あるときは、些細な形の恐れの中へ、またあるときは、正真正銘の恐怖の中へと逃げ込む。それでもあなたは前進するだろう。なぜなら、あなたのゴールは、恐れから真理に向かって前進することだからである。」(T-18.III.2:1-2)

 

コースを実践すると向かい風が吹いてくる、しかし聖霊を教師とする目的は、恐れ(分離は存在する)から平安(分離は実在しない)にシフトしていくことである。

 

この世界のレベルにおいて、普通は、自我の狂った攻撃の想念を行動に移したりしない方が、あなた自身やあなたの周りの人たちにとって、助けになります

 

この実践には練習が必要です。行動してしまったとしても、想念に少しでも気づけたなら進歩しているので、罪悪感を抱く必要はありません。

 

けれども、そうした想念がそこに存在していないという振りはしない方がいいのです。そのようなことをしても、それらをなくすことにはならず、ただ、もとの無意識の闇の中に送り返してしまうことになるだけです。

 

もうやめたいと思うなら否認はしない。攻撃の想念に動かされていることを自覚し、聖霊に助けを求めます。

 

そして、根本的な心理学的原理の一つに、「抑圧されたものは投影される」というものがあります。

 

抑圧(否認)されたものは投影される、そして投影は知覚を作り出します。

 

繰り返しになりますが、それは、内側における自我の険悪さがどれほど強烈になったり、恥辱的になったりしても、その自我を裁くことなく見つめる、ということを意味しています。

 

恐れ、怒り、自己の醜さの度合いに関係なく、咎めず見ることが常に必要です。

 

覚えておくべきは、自我【あらゆる人の自我 】というのは、100パーセント憎悪からできています。

 

自我=憎悪100%、これは後の話しに繋がってきます。

 

「あなたが感じる感情の度合いは問題ではない。かすかな煩わしさも、激しい怒りを覆い隠すべールにほかならないことを、あなたも次第にはっきりと自覚するようになるだろう。」(W-pI.21.2:4-5)

 

テキストを読むと眠くなるといったかすかな煩わしさも、朝ベッドから起き上がれなくなるような圧倒的恐怖も、同じものであり差はなく、自分も他人も殺したいという激しい殺意を覆い隠すベールに過ぎないということを、だんだん自覚していきます。

 

私たちの一人一人が、100パーセント憎しみに満ちた自我の声を聞くことにするか、100パーセント愛に満ちた聖霊の声を聞くことにするかを選ぶことができます。

 

これが憎悪100%と繋がります。聖霊=愛100%、また聖霊の思考体系はどちらか100%しか選ぶことができません。しかし自我の思考体系は自我=憎悪100%なのに、愛50%憎悪50%が可能だと囁きかけてきますが、それは嘘です。

 

私たちの一人一人が、この人生において発揮している性格的特徴とは関わりなく、「ヒトラー」でもあり「イエス」でもあるのです。私たちの想念や行動が「ヒトラー的」になっているときには、私たちは単に、怖くなって、聖霊の手を離し、再び間違った声を聞くという誤りを犯しただけなのです。

 

誰もが間違った心と正しい心に基づき行動しています。それは、個々の性格的特徴とは関係ありません。

 

これは、懲罰ではなく訂正を必要としている「間違い」なのです。そして幸いなことに、私たちの自我の残酷で狂った喚き声は、実相にはなんの影響も与えません。

 

そして間違った心は、罰ではなくただ訂正が必要な「間違い」です。しかも、それは実在しないので、私たち(決断の主体)にはなんの影響も与えません。

 

以上私なりに解釈してみました。ここは共感した、ここはわからないなどあったら、コメント頂けると嬉しいです。

【質問】怒りや攻撃の想念を自覚する①

ふとした瞬間に、

 

怒りや攻撃の想念が吹き上がってきて、

 

止まらないことがあります。

 

私の場合は不妊治療で通院した時に、

 

よくそれが浮上してきて、

 

妻との言い争いが増えることが多いです。

 

それが個人的な感情でないことは認識しているのですが、

 

止めることができません。

 

そういった想念について、

 

ワプニックさんの質疑応答が、

 

JACIMサイトにありますのでそれを抜粋しながら、

 

形而上学の整理をしてみます。

 

最近ようやく自力で質疑応答を咀嚼できるようになってきました。

 

気になる部分にアンダーラインを入れています。

 

【質問】

自我がしていることを見るために聖霊に助けを求めるようになると、自らの生活の中のものごとが、より良くなるのではなく、より悪くなるように思えることがよくある、ということは、私も承知しています。

 

確かにコースを実践しはじめると、様々なことが起こります。それはこの世的には、不運や不快とされることかもしれません。

 

私自身の学びのプロセスにおいてひどく不安な気持ちにさせられるのは、非常に多くの怒りが現れるということ (というよりも、多分、「浮上してくる」と言ったほうがいいのかもしれませんが) です。

 

この怒りが、今回私にも浮上してきてます。そしてそれはコースの学びを続けていいのかと、私を不安にさせます。

 

私の推測では、私が聖霊の助けを得て内側をよく見るようになるにつれ、抑圧されていた多くの怒りが浮上してきているということなのではないかと思っています。

 

私も、抑圧された多くの怒りが浮上してきているように感じます。

 

普段は物腰柔らかで静かな自分の性格という表層の下に、もしかすると横たわっているかもしれない他の何かを掘りかえすことを、私は「恐れている」と言えるほどなのです。これは長期にわたり『奇跡講座』を学んでいる者にとって、いわば「普通」のなりゆきなのでしょうか?

 

私も、善人を装う仮面の下には、悪魔が埋まっているのではないかと、仮面が暴かれて醜い自分が白日にさらされるのではないかと、恐れています。

質問者は、これは当たり前のことなのかと、ワプニックさんに問いかけます。

 

回答部分については、次回に続きます。

 

スピリチュアルのトラウマ

トラウマとは、

 

個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験のことです。

 

奇跡講座を学び始めるまで、

 

私はスピリチュアルに傾倒しており、

 

セッションやワークショップに行くことを、

 

ライフワークにしておりました。

 

そしてだんだんスピリチュアルをいくら学んでも、

 

何も変わらない、

 

同じことを繰り返していることに気づき、

 

スピリチュアルはやめたのですが、

 

そのやめる直前の大きな気づきとして、

 

Aさんとの関わりがありました。

 

そのAさんが、

 

告発されたとの情報が、

 

先日耳に入ってきました。

 

最初それを聞いた私は、

 

どこか危うさを抱えていた、

 

Aさんが告発されるのは、

 

さもありなんと思いました。

 

そしてスピリチュアルはやめたので、

 

わたしにはAさんが、

 

どうなろうと関係ないと思いました。

 

しかし心がもやもやしてくるので、

 

ジャーナリングしてみました。

 

Aなんかいなくなればいい、

 

裏切り者、罪を償え、

 

嘘つき、詐欺師、

 

破滅すればいい、

 

苦しい、苦しい、

 

よく見ると、

 

心安らかではありませんでした。

 

これには違う見方がある思いました。

 

心のレベルではAさん=私です、

 

Aさんとのいざこざも、

 

今思えば私の罪・罪悪感・恐れの投影でした。

 

ゆえに聖霊に祈ります。

 

どうか聖霊よ、

 

私に代わって神を選ぶ決断をし、

 

私の間違った決断の結果を取り消してください。

 

こんな形で古いトラウマが浮上し、

 

癒されることがあるのですね、

 

不思議な経験でした。

 

痛恨の一撃

8月は形態のレベルで、

 

ほんとに色々あったのですが、

 

最大の嵐は不妊治療でした。

 

不妊治療は自我の大好物で、

 

これに取り組むとき、

 

多くの葛藤が、

 

嵐のように降り注ぎます。

 

そして卵子の移植に向けて、

 

夫婦一丸となって取り組んでいたのですが、

 

移植は移植予定日直前で、

 

緊急中止となりました。

 

これは痛恨の一撃でした、

 

お金も、

 

二人の努力も、

 

子どもという夢も消え去り、

 

心に風穴が空いたような気持ちで、

 

無気力状態になりました。

 

しかし最初の移植(奇跡講座を始めるきっかけの絶望)に比べると、

 

2回目の移植は2日で立ち直り、

 

今ではこれをきっかけに、

 

コースの理解が大きく進んだように感じています。

 

これは自我にとっての痛恨の一撃で、

 

神の子としての私は、

 

何一つ傷ついていなかったんだな、

 

と実感しています。

 

AかBか?

お笑いが好きです。

 

ロバート秋山の「TOKAKUKA」という歌を、

 

最近聴いていて思ったのですが、

 

「これって自我の思考体系そのものじゃない?」

 

と思うのです。

 

歌詞抜粋

都がやってる 区がやってる

都か 区か

都か区か 気になる

 

まずここで何でそんなこと気になるねん!

 

と笑いを感じるのですが、

 

自我がやってるのはまさにこれです。

 

Aが正解、Bが正解、

Aか Bか

AかBか 気になる

 

それに対して聖霊は、

 

この世界は幻想なんだから、

 

Aという選択肢も、

 

Bという選択肢も、

 

存在しないんだよ。

 

と優しく微笑みかけます。

 

誰が決めてる

都か区か? 市か区か?

ルールが分からない

都か区か? 市か区か?

いつも こうさ 情けないだろ

 

しかし優しく突っ込む、

 

聖霊の声を無視して、

 

私は悩みはじめます。

 

誰が正解を決めてるの?

 

神様?

 

ルールがわからない、

 

うまくいったり、

 

うまくいかなかったり、

 

努力が必ず報われるわけではない。

 

いつも悩み苦しんでいる、

 

罪悪感を感じる。

 

限界モードさ

都か区か? 市か区か?

今夜も眠れない

 

そして

 

どうしてもわからない、

 

苦しい、苦しい、

 

答えが出ない、

 

こうやって悩み続けて、

 

ストレスで、

 

病気になったりします。

 

そうやって苦しんでる私を、

 

聖霊はずっと、

 

だからこの世界は幻想なんだから、

 

都も区も、市も区もないんだよと、

 

微笑んでいます。

 

ついつい正解を探して、

 

苦しんでしまう時、

 

この歌を聴きながら、

 

聖霊の声を思い出し、

 

深刻さを笑いとばします。

 

コースでは時々聖霊の思考体系の象徴として、

 

笑いが語られていますが、

 

こういうことなのだと、

 

腑に落ちました。

 

 

奇跡講座1周年

奇跡講座上下巻を、

 

2019年8月13日に購入したので、

 

その日を学びのはじまりの日としています。

 

ですので2020年8月13日で1周年となりました。

 

後世への記録として、

 

学びの今を記しておきます。

 

1年前は仕事が激務で、

 

その他色んなことが重なって、

 

苦しくて苦しくてどうにもならない状況でした。

 

そんな中ゲイリーレナード氏の本で、

 

奇跡講座を知り、

 

藁をも掴む思いでテキストを手に取りました。

 

最初は読んでも全然分からず、

 

ワプニック氏の解説本を読んでもよくわからず、

 

状況も酷くなる一方でした、

 

そんななか旧知のセラピストであるもりGさんのセッションを受け、

 

まずはJACIM発行の「原因のコース」と「思考の逆転」を徹底的にやりなさいとアドバイスをもらい、

 

それらに取り組みました。

 

何度も読み込んでいくと、

 

コースの全体像がおぼろげながら、

 

見えてくるようになり、

 

自分なりの赦しの実践が、

 

できるようになってきました。

 

そんな中2020年3月末に他部所への異動が決定し、

 

残業地獄から非常に余裕を持って働ける状況に、

 

形象が変化しました。

 

余裕ができたことから勉強会に時々参加しながら、

 

学びを深めている状況です。

 

現在は主にJACIMテキスト「聖霊のレッスン」とワークブックに取り組んでいます。

 

一年前は苦しみで一杯で、

 

それは形態のせいだと思っており、

 

職場や薬や運動などで、

 

今の状況が変えられると思い込んでいました。

 

しかし今は心が原因だということを、

 

知的レベルでは理解できており、

 

実践を通じて自我の思考体系ではなく、

 

聖霊の思考体系を選択する訓練をしている状況です。

 

まだまだ向かい風は断続的に吹いており、

 

苦しみながら、

 

平安を選択する毎日です。

 

スピリチュアル歴は15年近くになりますが、

 

奇跡講座には確かな手応えを感じています。

 

また来年そして、

 

実相世界に到達し奇跡講座が必要となくなるその日まで、

 

学びを続けていきたいと思います。