安心立命 

奇跡講座の実践と気づきについて

痛みを正直に見る

先日親不知を抜歯しました。

 

そのためチクチクと痛みを感じながら、

 

不快な日々を過ごしています。

 

この痛みとはなんなのでしょうか?

 

聖霊の視点で見たいと思いました。

 

ワプニックさんはよくコース実践の基本姿勢として、

 

正直でありなさいと言っています。

 

正直であること、

 

そしてその正直な自分を咎めず見なさいと、

 

痛い、痛い、痛い、

 

苦しい、苦しい、苦しい、

 

感じてみると、

 

何だか何者かに攻撃されているように感じている私がいます。

 

そして攻撃されているということは、

 

これは私の責任ではないという想念があります。

 

私の責任ではない、

 

これは良く私の中に出てくる想念です。

 

私は攻撃された結果、

 

痛みを感じているのだから、

 

これは私が自分で決断したことではありません、

 

そのように感じます。

 

しかしコースではこのように見ます、

 

私が心安らかでないならば、

 

間違った決断をしたに違いないと、

 

しかしそんなことはありえないと感じます、

 

こんな苦しみを、

 

自分で選択してる?

 

ありえない、ありえない、

 

そんなことはありえない。


しかし正直になるなら、

 

私は苦しんでいたい、

 

私が苦しむならば、

 

神は存在しない、愛は存在しない、

 

愛から分離していたい!

 

分離は実在するのだから。

 

この分離は実在するという信念、

 

自我の思考体系の核心まで、

 

遡ってきました。

 

ここまでくるならば、

 

後は聖霊に任せるしかありません。

 

私は聖霊に私に代わって神を選ぶ決断をしてもらい、

 

私の誤った決断の結果を取り消してもらうことを選択します。

 

 

 

ずっと眠りこけていたい

今日特徴的な夢を見て、

 

目を覚ました時、

 

苦しみや恐怖を感じているのに、

 

気がつきました。

 

今までは悪夢かストレスが原因で、

 

こんな気持ちなんだと思っていましたが、

 

今ではそれが心の中の罪・罪悪感・恐れの投影だということは、

 

腑に落ちてきました。

 

そして今日はふと睡眠とは何だろう、

 

別の見方があるのではないかと思いました。

 

なぜ人は眠るのか?

 

心を見てみるとこんな想念がありました、

 

怖い、怖い、眠りこけていたい、

 

神の国には帰らない、殺される、

 

神に殺される、神が恐ろしい。

 

私はこの想念を聖霊の視点で見る決意をしました、

 

忘れていたい、忘れていたい、

 

この恐怖を忘れていたい、

 

私は眠り、夢の世界に逃げ込んだ、

 

罪、罪悪感、

 

罰を受けるのが恐ろしく、

 

神から逃れる為に。

 

睡眠とは身体の休息のために必要なものだと

 

思っていましたが、

 

聖霊の視点で見るならば、

 

それは否認と投影という自我の力動に他なりません、

 

自我の夢の中で、肉体として眠り、夢を見る私、

 

もしかして眠りの夢の中の私も、

 

夢を見るのではないか?

 

それが永遠と続いていく、

 

そんな夢の中の夢のイメージが浮かびました、

 

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そう考えると睡眠、食事、仕事、趣味、

 

家族等、私の全ての行為が、

 

自分の必要を、獲得して満たす、

 

ただそれだけのような気がして、

 

恐怖が湧いてきました、

 

全てがそうだなんて、

 

受け入れたくない自分がいました。

 

「光が近づいてくると、あなたは闇へと急ぐ。真理の前で縮み上がり、あるときは、些細な形の恐れの中へ、またあるときは、正真正銘の恐怖の中へと逃げ込む。それでもあなたは前進するだろう。なぜなら、あなたのゴールは、恐れから真理に向かって前進することだからである。」(T-18.III.2:1-2)

 

しかしそれでも、

 

恐れから真理に向かって、

 

前進していきたいと思っています。

痛みと殺意

食あたりなのか、夜に目が覚め、

 

便意を感じ、トイレに行くと、

 

腹が痛いのに、便が出ず、

 

のたうち回るほどの腹痛を感じました。

 

意識が飛びそうな痛み、

 

このままトイレで死ぬのか、

 

一瞬そんな思考がよぎりますが、

 

まあ何度か経験しているので、

 

そんなことはありません。

 

痛みに呻きながら、

 

今回初めて感じたのは、

 

私の心の中の殺意、

 

殺す、殺す、殺す、

 

日々この殺意を人に投影したり、

 

自分に投影したりしているのですが、

 

今回はそれを肉体に投影し、

 

激痛という知覚で、

 

明確に感じることができました。

 

自分を殺したい、

 

その憎しみを肉体に投影している。

 

コースの中でイエスは、

 

決断の主体は分離を選択し、

 

自我が生まれ、

 

自我の防衛として肉体が使われている、

 

自我の原因が分離(神の殺害)が起きたという信念のため、

 

死という贖罪から逃れることはできないと、

 

説明しています。

 

今回強い痛みを通して、

 

肉体がいかに病気となり、

 

死んでいくのかその原理を、

 

垣間見たような気がしました。

 

 

私には何の責任もない

先日相手の怒りに対して、

 

怒りで反応してしまいました。

 

これは自我のパターンで、

 

時々自我は投影を使って、

 

私を挑発します。

 

それを頭ではわかっているんですが、

 

私は挑発にのり反撃しました。

 

二人の空気は一気に険悪になりました。

 

ですが少し時間がたつと冷静になり、

 

自我の力動を読み解いてみようという、

 

意欲が沸きました。

 

なぜ私は攻撃に対して、

 

こうも簡単に反撃してしまうのだろうかと、

 

それが間違った選択だと頭ではわかっているのに。

 

奇跡講座のテキスト第6章に、

 

こんな記述がありました。

 

自分が攻撃されたと信じ、それに対する反撃が正当化されると信じ、そのことに自分は何の責任もないと信じているのでない限り、怒りが生じる事はありえない。

 

これを読んで思わず笑ってしまいました。

 

私には何の責任もない、

 

なんで俺が怒られなあかんのやと、

 

いつも思ってしまいます。

 

そしてやられたら、やり返す!

 

それは正当な反撃だと思いこんでいます。

 

しかしテキストでイエスはいいます。

 

あなたは攻撃されることなどあり得ず、攻撃にはいかなる正当な根拠もなく、あなたが何を信じるかはあなた自身の責任である。

 

コースの学びを続けることで、

少しずつこのことが理解されてきます。

 

そして攻撃することで、自我を実在化させていることにも、気づいてきます。

 

条件反射のように反撃をしてしまいますが、

 

それが自我の力動であることを自覚していく必要があると感じます。

進撃の巨人 最終章(27巻〜30巻)

アニメ「進撃の巨人」The Final Season

 

の放映がついにスタートしました。

 

聖霊を選択したいと思いながら、

 

一方でこの作品の暴力性に魅了される

 

私がいます。

 

人間の敵は、やはり人間であり、

 

「やられたらやり返す!」

 

復讐とはなぜこんなにも魅力的なのでしょうか?

 

それは自我が神に復讐したいと、

 

ずっと思っているからなのだと感じます。

 

お蔵入りしそうだったのですが、

 

アニメを見て見返すと、

 

自我の思考体系を的確に描写している気がするので、

 

漫画の名シーンを、

 

奇跡講座の観点から紹介します。

 

まずトム・クサヴァーの説得によりジークが親を裏切るシーンです。


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ジーク・・・

 

君は両親から・・・酷いことをされた

君の両親は自分達の向こう見ずな計画のために

君を利用した

 

7歳の君とおじいちゃんとおばあちゃんを命の危険に晒し

 

勝手に期待し勝手に見放し

 

ちっとも君のことを気にかけなかった・・・

 

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君を愛さなかった・・・

 

君は悪くない・・・

 

君は賢くて・・・

 

いい子だ・・・

 

このシーンは、両親(神)、ジーク(神の子)、トム・クサヴァー(小さな狂った考え)

と考えると、

 

下記引用部分を表現したシーンに見えます。

 

「すべてが一なるものである永遠の中に、一つの小さな狂った考えが忍び込み……その時点で神の子は笑うことを忘れてしまった。」

(T-27.VIII.6:2-3 )

 

続いては始祖ユミルの回想とエレンとの出会いのシーン

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この世界は辛くて厳しいことばかりだから

 

みんなから愛される人になって

 

助け合いながら生きていかなきゃいけないんだよ

 

ユミルはこのように

 

残酷な世界から心を守るため

 

自分の意思を抑圧し

 

愛される人にならなければいけないという

 

呪いを自分にかけます。

 

これは自我がよくやることです。

 

露悪的になったり、

 

人の顔色を自分より優先して、

 

いい人を演じたり

 

自我はいつも語りかけます

 

今のままではダメだ、

 

もっと違う何かにならないと

 

生きてはいけないと。


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ユミルは今まで愛されたいと願い

 

王に命令されるがまま、

 

その力を行使してきました。

 

そこに王の血を引く

 

ジークがやってきて

 

王と同じように命令します。

 

俺の命令に従え!!

 

今すぐやれ!!

 

ユミル!!

 

俺は王家の血を引くものだ!!


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一方でエレンは語りかけます。

 

オレをここまで導いたのはお前なのか?

 

待っていたんだろ

 

ずっと

 

二千年前から誰かを

 

その言葉を聞いて

 

ユミルの顔から

 

ずっと堪えてきたであろう、

 

涙が溢れ出します。

 

エレンは壁の外に自由を求めて

 

戦ってきました。

 

しかし壁の外には人間同士の殺し合いが、

 

あっただけでした。

 

そんな世界でエレンはどんな結論を出すのでしょうか?

 

コースは啓示体験を目的とはしていない。

「聖霊の教室」ACIM MIRACLES

ACIMウェブ勉強会 形而上学クラス

 

テーマ:「奇跡と啓示」を受講した感想を書いたので、

 

こちらでも共有します。

 

啓示体験は実相世界ではない。

 

またそれについて、正しい理解がなければ、

 

私は選ばれた、私は特別と、

 

自我の餌になってしまいがち。

 

啓示体験をしても夢の中にいる限り、

 

分離を信じていて、

 

やることは変わらない。

 

神の教師ではなく、

 

コースの教師になっていないか、

 

自戒する必要がある。

 

自我はショートカットしたいし、

 

簡易化したい。

 

私自身もそういう体験を自我の餌にしてきたし、

 

それに魅了されてしまって、

 

自分の心に注意を払うのを、

 

やめてしまった人も見てきました。

 

この自我の力動について、

 

再認識できたので、

 

今後も注意を払いながら、

 

学びを続けて行きたいと思います。

コースの学び方は法律の勉強に似ている。

「聖霊の教室」ACIM MIRACLES

ACIMウェブ勉強会 形而上学クラス

 

テーマ:『奇跡講座』は心理学であるを受講し

た感想を書いたので、

 

こちらでも共有したいと思います。

 

私は法律を勉強していたことがあるのですが、

 

コースを学びながら思うのは、

 

法律の勉強法と似ているという点です。

 

法律の条文(テキスト)を理解するために、

 

講師の解説(ワプニック解説)を学び、

 

それを頭(決断の主体)に叩きこむことで、

 

少しずつ、

 

法律の条文(テキスト)に書いてあることがわかってくる。

 

しかしコースにおいては、

 

ワプニック解説にプラスして

 

学びの実践が必要不可欠であり、

 

実践がテキストを理解する、

 

大きな助けとなっている点に、

 

違いがあります。

 

このコースのアカデミックな特徴が、

 

受験勉強好きな私に、

 

しっくりくるのだと感じました。

 

また、時空の中の今と

 

時空を越えた今の違いがある。

 

そして時空を超えた今で、

 

普遍化(あの時と同じ体験だ)が起こる。

 

それによって特別化が取り消されるという話しで、

 

時間の短縮と聖霊による取り消しということに

 

ついての理解が深まりました。